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十二

道 場 親 信

「戦後60年」を問い直す
――東アジアの中の戦後日本――

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「現代思想」(青土社)道場親信の寄稿号
特別掲載「『占領と平和』あとがきのあとがき」/ 道場親信
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特別掲載「『占領と平和』あとがきのあとがき」/ 道場親信

こんにち、反戦平和と市民的不服従についてじっくり考えてみようというとき、参照し活用しうる資料や書籍はどこにあるのだろうか。それらはたしかにある。実際のところたくさんあるのだけれど、それらへのアクセスは必ずしも容易ではない。しかしここに一冊の本がある。分厚くて、いかめしい本に見えるけれど、著者は戦後日本における反戦平和運動をつぶさに見つめなおすための、さまざまな視点と参考資料の数々を、読者に惜しみなく提供してくれる。新聞やテレビでは教えてくれない、歴史の分厚い堆積がかいま見えてくる。道場親信氏のはじめての単著『占領と平和』の刊行はけっして小さくはない「事件」なのかもしれない。

(聞き手=「[本]のメルマガ」編集同人・小林浩)

小林: 道場さんの第一論文集である『占領と平和──〈戦後〉という経験』が、先月、青土社よりついに刊行されました。たいへんおめでとうございます。内容もそうですが、モノとしても重厚な本です。本文が650頁もありますし、注と参考文献をあわせると750頁にもなる。厚さにして43ミリ。本屋さんだったら、通常は5冊から7冊ぐらい仕入れて平積みにするところを、かさがあるので3冊あれば十分平積みになります。だから商売的に言えば効率が悪いほうかもしれませんが、この分量が「必要」である、と道場さんはお考えになっておられるわけですね。
道場:たぶん参考文献のデータまで入れると1500枚ぐらいあると思うんですが、自分では恐ろしくて数えてないのでわかりません。ほとんど削ることもなく、そのまま出版してもらえるという贅沢が許されて、とても恐縮しています。ただ、最後に索引つけたいなーといいかけて、担当編集者の岡本さんには無言のうちに却下された(笑)ことが心残りですね。これ以上ページを増やすわけにはいかなかったんでしょうが。
小林:ダウンサイズすることが当たり前になりがちな商売の合理主義の観点からすれば、たしかにマズいのかもしれません。でも、商売や見掛けの分かりやすさを気にして、無理やり切り約められた小さな本になるよりかはよっぽどいい。歴史に見合うだけの記述の分量と言いましょうか。その点を青土社さんも『現代思想』誌の掲載時からよくわかっていたわけでしょう。
道場:でも毎回「君の雑誌じゃないんだからものごとには限度があるんだよ」と怒られてたんですよ。かなり無理な「連載」の形になってしまって、編集長の池上善彦さんには頭が上がりません。しかも、結果的には相当長いものを載せてもらっています。僕はあまり明晰にものを考えられないので、いくつもいくつもテキストを引用しながら、読者と一緒に考えていく呼吸で論文を進めていかないと、書いている自分自身にも何も見えてこない。で、書いてみると、いつも意外な発見があって、そういう機会を何度も与えていただいたことが、モヤモヤしたアイデアにすぎなかったことどもをひとつの論文へとまとめあげ、自分なりの「戦後」観、「歴史」観をつくっていく上で本当にプラスになりました。ここ数年の『現代思想』誌上でのこの「思考実験」というか模索というか、ある種「放し飼い」的な機会がなければ、僕は「戦後史」についての本を書くこともなかったでしょう。
小林:そうした機会を与えてくれたのが池上さんであると。
道場:以前酒井隆史さんも『自由論』のあとがきで書いていましたが、池上さんという人は、まだアイデアの段階にすぎないいくつかの細切れな発想を面白がって、それをふくらませる作業につきあってくれる稀有な編集者だと思います。彼がいなければ、アイデアをこのようにふくらませることもできなかったでしょう。たとえば今回の本のもとになった反戦平和史ノートにしても、いくつかの偶然の累積と、自分なりに書いてみたいことが出てきたことから初めて可能になったものですが、しかし池上さんが「書いてみない?」といったときには無理だと思いました。
小林:それがあの分厚い本になるまでになったわけですが、当初は予想できなかったのですね。
道場:戦後の反戦平和運動史それ自体は、1992年から池田五律さんや天野恵一さんたちとやっていたいくつかの研究会(「反戦・平和運動研究会」や「戦後研究会」)で考えつづけてきたことではありますが、それは第一に、自分にとって「専門外」の、「アマチュア」としてやるべきテーマであるというふうに考えていましたし、第二に、取り扱う範囲が広大で自分の手に余るものと考えていました。たぶん池上さんのノリで頼まれなければ、手を汚す、というか、実際に取り組んでみようともしなかったでしょう。
小林:そうだったんですか。
道場:けれども実際に原稿を書くつもりで2003年の2月、3月、4月と反戦デモに加わっているうちに、いくつかの問題が運動圏内で発生したり、その問題について自分なりに考えることがあったり、ということで、テーマがはっきりしてきました。『現代思想』の「反戦平和の思想」特集(2003年6月号)では、吉川勇一さんにインタビューしたり、鵜飼哲さん・李孝徳さんと座談会をしたりと、短期間にいろいろな経験をしましたが、その経験も「ノート」をまとめる上で本当にプラスになりました。考え、語り、書くことで、それまで存在していなかったストーリーやビジョンが一つの文章としてまとめられていくプロセスに立ち会って、書いているのは自分ながら、不思議な気持ちでした。
小林:なるほど。そうした過程が積み重なって……
道場:結果的にこの「ノート」は、自分が動きながら考えたことの同時進行的産物であると同時に、この十数年の作業の総括的な書き物ともなりました。1996年に出した「戦後日本思想史年表」(コメンタール戦後50年編集委員会編『コメンタール戦後50年別巻 もうひとつの戦後へ』(社会評論社)の作業がなければ、「戦後史」にアタリをつけることもできなかったでしょう。多くの人たちに支えられてここに至ったことをありがたい気持ちで振り返っています。
小林:さまざまな機縁があってこうしてここに『占領と平和』がまとまったわけですが、再確認しますと、『現代思想』誌上に2001年から2003年にかけて断続的に発表した論文がもとになっているのですね。
道場:そうです。主として、東アジアの冷戦という文脈の中に戦後の社会運動や社会思想を置きなおしてみたい、という関心に基づいて書かれた論文が集められています。ただ、書いているうちに長くなってしまって、分載の形で発表されたものが中心になったため、実質的には3本の論文からなる論文集ということになります。
小林:3部構成ですよね。第1論文は、「東アジアの冷戦とナショナリズムの再審」と題してあって、本書全体の序論となっています。
道場:ええ。日本の戦後が「日米合作」であったというにとどまらず、東アジアの冷戦体制自体が、アメリカと現地政府の、あるいは現地におけるさまざまな社会的ブロックの「合作」によって構成されたシステムであったということを、軍事同盟・ナショナリズム・軍制などを手がかりに読み込んでいくことはできないかと思って書いたものです。そして、そういう形であらかじめ相互浸透しあってしまっている東アジア各国の国家・社会の実態に即して考えたとき、戦後日本の「単一民族国家」像や平和主義の問い直しが可能になるという問題提起をしています。こういう整理を誰かがしてくれるのを待っていたのですが、誰もちっとも書いてくれないので自分で書いてみたというところです。で、書いてみると、これまでばらばらに考えていたことがつながって見えてくる、という効果がありました。その点で、自分にとってもひとつの「転機」となった論文といえます。
小林:なるほど。次に第2論文は、「『菊と刀』と東アジア冷戦──あるいは「日本文化論」のパターン」と題されていて、これが第I部となっています。
道場:もともと『現代思想』誌には3回に分けて発表しました。というか、1回で書ききれずに2回、3回と延長してしまったものです。序論の問題意識を受けて、アメリカ軍による日本占領と、そのもとでの象徴天皇制の形成という政治過程と『菊と刀』のテキストがどのように関連しているのかを分析し、さらに、この本の読者の側がその文脈をどのように読み誤ったか、という点をしつこく追いかけてみたものです。占領下における天皇制の危機という文脈がもつ歴史性と政治性をあらかじめ忘却したところから戦後の「日本文化論」は始まるのだということを明らかにしながら、反人種主義の闘士にして左派に近いリベラルであったルース・ベネディクトが象徴天皇制を支持する政治的な文脈について考えてみました。ひとつの鍵は原爆投下の評価にかかわる問題だといえると思いますが、この原爆投下と天皇(制)の戦争責任という問題は、第3論文にもつながっていきます。
小林:第3論文は、「「反戦平和」の戦後経験──対話と交流のためのノート」と題されています。本書ではこれが第ニ部です。
道場:ここでは、敗戦後の日本の反戦平和運動史について追いかけています。これについてはお話ししたいことがたくさんあるのですが、ごくいくつかの点にとどめたいと思います。第一に、イラク反戦運動の経験を今後にどうつなげていくかという問題意識と、それが過去の運動に対する無理解・誤解・レッテル張りによって貧しいものとなってしまうのではという危惧を抱いたということが、この文章を書いた一つの強い動機となっています。歴史的経緯というものは、かいつまんで当面わかりやすく説明することはできても、やはりそれだけでは熟慮を可能とする材料になりません。
小林:仰る通りだと思います。
道場:第二に、この文章は、あくまで「無党派」である私の立場から、党派・無党派さまざまな主体によりさまざまな動機に基づいて取り組まれた「反戦平和」の経験に対し、「動機」を構成する論理を形式化した上で、比較検討しながら時系列的に再検討してみた、という性格のものです。やや図式的に見える部分や、「無党派」ゆえの「党派」に対する冷淡さなどが気になるような部分もあるとは思いますが、さまざまな主体が連結したり、論議をしたりする上で必要な観点はできるだけ盛り込んでみたつもりです。
小林:道場さんの言う「無党派」とは複数の視点を意味しているのだと私は理解しています。
道場:ただ、労働組合、とくに地区労が果たした役割については検討できていないのと、平和委員会などの地域における展開もとても追えていません。いわゆる「革新」の政党・労働組合系の運動の追跡が不十分、ということは自覚しています。東京中心的という限界もあります。歴史的な事実の評価にかかわる点については異論もあるでしょうし、情報不足ということもあるでしょうから、この点は、この本を足がかりにそれぞれの立場から歴史的な再検討の方法を提示しながら、事実関係も共有できるように議論が活性化していくものとなればいいなと思います。
小林:どんどんこの本を使ってください、と。
道場:そうですね。趣味人向けの歴史として書いたつもりはなくて、「戦後」という歴史性を再度問い直す作業、さらにその歴史的な時代の中でどのような「抵抗」が行われてきたのかを共有することは、広く大衆的な作業として必要なことだと思います。その意味では、狙ったわけではないにしろ、「戦後60年」の今年出版できたことは、多少とも読者の「上乗せ」分が期待できるかも(笑)ということもあります。
小林:本書をどんな現場で活用してほしいですか。
道場:まずは市民の学習会などに使ってもらえたらとてもうれしいです。それから、とくに第II部に関連して、「反戦平和」経験の聞きとりを広範囲に行ってはどうかと「あとがき」で呼びかけているのですが、その聞きとりの際の予習用にも使えると思います。というか、使ってほしい。第I部も第II部も、「戦後」を平板化せず、どのような力の場で、どのような可能性が開かれたり閉じられたりしたか、という問題意識で一貫させたつもりです。安易な「戦後」否定論や改憲論に対して、自分なりにものを考える手がかりを得たいと思っている人にぜひ読んでほしいです。
小林:手がかりを探しているというか、モヤモヤした疑問を多少なりとも感じている読者は、潜在的に多くいるような気がします。
道場:ただし、構成はやや込み入っていますから、「戦後」の単純な肯定・救済ということにはなっていません。未消化なまま修正主義の人と歴史について議論すると、わけがわからなくなるかもしれません。消化した上で、自分なりの議論というものを考えていく素材という以上のことを著者としては狙っていません。その先は一人で考えるもよし、集団作業で考えるもよし、その段階での作業こそが本当に大切なことだろうと思います。
小林:歴史修正主義者はあいかわらず世間にはびこっていますし、彼らの本は堂々と書店で売られています。それどころか、そうした一派が作った教科書が公けに認可されたりもします。歴史を学ぶ自分自身の環境に、現代人はますます自覚的にならねばならなくなってきました。
道場:そう思います。歴史に対してわかりやすい「答え」を求める人たちがそうした著作にとびついています。僕はむしろ、そうした「答え」を別な形で示すことではなく、各人が自分なりに考える上で忘れてはいけない事実や、自分が直接体験していない他者の経験とどう「対話」しうるか、あるいはどうやって糸口を探すかという模索の過程に身を投じるやり方をひとつの参考著作として示してみたかった。というのはつまり、本書にあるような「戦後」の経験と各自が対話してほしいということです。自分なりに追体験しながらそこに「参加」してみること。そこから、今後自分がものを考えていく際のある姿勢を選択するヒントを見つけることができるのではと考えました。著者なりに刺激を受けるテキストを選択して紹介してみたつもりです。
小林:刺激と言っても、もちろんそれは娯楽や興味本位のものではないわけです。本書の目的はそうではなくて……。
道場:ひとつの「民衆史」の実験です、いわば「視聴者参加型」の。本書には、インテリも出てくるけれど、それは自らが活動する限りにおいてのインテリ、というふうにできるだけ限定しました。メタな次元から分析している場合もいくつかあって、その役割は坂本義和氏とか石田雄氏とかの研究に依拠しているのですが、彼らの文章においても、運動に近いところで発言しているものを優先したつもりです。これは引用の方法にも共通の問題です。できるだけ当事者に語らせたかった。ちょっとテレビドキュメンタリーの方法に似ているかもしれません。
小林:ドキュメンタリー、なるほどそうかもしれません。お堅い歴史書というよりは、ドキュメンタリー番組が進んでいくような、静かですが底流に熱いものを感じさせます。
道場:単に大風呂敷広げてるだけかもしれないんですが、横へ横へ開く「まんだら」の歴史です。時間性と空間性、それとそこで働いている感覚や制約要因、こうしたものを感覚的かつ論理的につかみながら、今日的実践ともつなげていくためには、ある長さが必要なんです。「まんだら」とはいいましたが、エピソードの羅列でもなく、複数の主体が織りなすアクティブな歴史であることを目指しています。これは読者に審判していただくしかないですが。それは当然のことながら、目的論的な歴史ではないものを志向しています。
小林:さきほどの無党派的な複眼的視点という姿勢とつながるお話でしょうか。
道場:党派による歴史記述は目的論に陥りやすいと思います。「反戦平和」の歴史なども、古いものだとそういう傾向がありましたし、新しいものは書かれていない。そういう状況に対して一石を投じているつもりはあります。『菊と刀』論も、とくにアメリカの「リベラル左派」の人々が演じた役割を見るとき、国家対国家の「陰謀」論や「自主」対「従属」という物語には還元できない複雑な「合作」状況や「意図せざる結果」を見出すことに意を用いました。もうひとつ、本書には「行動史」という視点も盛り込んでみました。本文でも書きましたが、「思想史」ないしは「組織論」中心だった従来の「運動史」の記述の仕方を変えることを狙ってみました。
小林:マンダラ状の歴史記述はしかし、本書において完結したわけではありませんね。
道場:そうです。本書、とくに第II部は一個の「ノート」であり、完成した「戦後史」、「反戦平和運動史」ではありません。それは第一に、自分なりにイメージしている「全体」にもとても迫っていないということがあります。それからもうひとつ、完成した「歴史」を書くということは、閉じた系を作ることです。閉じた系を作ることが必要なテーマや場面はあるかもしれませんが、このテーマに関しては、「完結」というものは当分ありえないと自分では考えています。反戦平和の経験はまだ十分に語り出されておらず、かつ共有されてもいない。まずはその状況に対して、一定の「使える叩き台」が必要だと考えたのです。それは、共に歴史を記録し、書き取り、そうすることで「歴史」というストーリーを構想していく未知の老若男女の仲間たちに対して開かれた形を取りたかった、ということです。
小林:カバーと扉写真についても、そうした趣旨のコメントをされていますね。砂川闘争の写真を選んだことで、他の時代・社会の人々の経験とつながるメッセージを込めている、というふうに理解してよいのでしょうか。
道場:最初「60年安保」の写真を使ってはどうか、という提案もされていたのですが、これは僕としては強く拒みました。というのも、闘争の実態はともかくとして、「60年安保」の写真がもつクリーシェ的な意味があまり快くなかったということがあります。国会を取り巻く群衆の姿は、「戦後史」の書物やテレビ番組などで何度も反復されるうちに「日本人」の内側に閉じた、「思い出」の1シーン、過ぎ去った時代すなわち現在を侵食しない安全な過去を示すクリーシェになってしまっているように感じるからです。「安保」をそこにいた人たちの「同窓会」的思い出の中に埋没させてはいけないと思うのですが、ここで「安保」の写真を使うことは、その「思い出」の世界に安易に連結してしまう危惧を抱きました。
小林:鋭いご指摘ですね。
道場:それに対して、基地闘争の写真は、ある意味で同じような形、同じような機能をもった基地に直面した人々にとって共通の現場性、現在性をもってつながる可能性を秘めていると考えました。時代や地域を越えて、それぞれの場所から同じものを撃っていける可能性をもっている。そんなわけで、僕自身は最初からこの本は基地闘争の写真をカバーに使いたい、と思っていました。
小林:とても印象的な写真です。選択は正解だったように思います。
道場:もちろん、「つながる」といっても容易ではありません。ある地域から追い出した基地が、別な地域に押し付けられることもあり、そこで基地と闘う人々自身が分断され、利害対立に陥る場合もあります。たとえば1980年代に米空軍基地の騒音に悩む厚木基地周辺の「市民」たちが三宅島に夜間発着訓練基地を移設するという計画に賛成し、三宅島まで基地受け入れを「説得」に行って放逐されたような事件もありました。しかし、「ゼロサム・ゲーム」のように見せかけられ、基地に反対する者同士が対立するのはニセの対立であり、共に基地を廃絶していく闘いへとつながっていくことは不可能ではないと思います。むずかしいことではありますが、そこで分断されずに、たとえば辺野古と宜野湾が連帯しているように、基地を抱える地域同士がグローバルに連携していくことができれば、と夢想します。
小林:ところで、道場さんは本書にまとまった以外にもすでに多くの論文を書かれてきましたね。以前から「道場親信著作集ができるくらいだよね」と冗談まじりに言う人がいたくらいです。
道場:本ができて、みんなホッとした、といってくれています(笑)。何やってんだろこの人、という空回り感の強かったこの十数年ほどの時間の中で、やっとアウトプットを出すことができました。実際、書きあがってみるまで何ができるのかさっぱりわからないし、できてみると、いつもジャンルのわからないものになっている。もともと大学院は「社会学」だったのだけれど、社会学の人たちからはいつも「歴史学だよね」といわれ、歴史学の人たちからは「社会学の人がいかにも書くものですね」といわれます。アイデンティティ的にもいつも困っていました。
小林:安心してください。本屋さんでは間違いなく歴史書の棚に置かれますよ。
道場:青土社の営業の方も努力してくださっているようです。ありがたいです。論文の選定と構成も、担当編集者の岡本さんが最良の案をだしてくださいました。はからずも増補しすぎてページが厚くなり、持ち運びに不便極まりなくなったことと、運動で出会った人たちに買ってもらうには少し値が張るものになってしまったことは残念です。価格設定についても青土社さんはものすごく努力していただいたということはあります。頭が上がりません。
小林:さすが、出版社の苦労をお分かりでいらっしゃる(笑)。
道場:それにしても、「本」というものを初めて書き終わってみて思うことは、ものを書くということは孤独な作業だな、ということですね。さっき言ったことと矛盾するように思われるかもしれませんが、アウトプットしたものを読んでみると、自分がこれまでに関わってきた人たちとのつながりを強く感じる一方で、「書く」という行為だけは誰も代わってくれない。当たりまえのことかもしれませんけど、最後集中して原稿を書いているときにはほとんど人界から切断されていました。とりあえず全部入稿してホッとした翌朝目がさめて、その日書かなければいけない原稿のストーリーを練ることから解放されていることに気がつき、「あー人間の世界に帰ってきた」としみじみ感じました。
小林:なんとも言えない解放感ですね。充実感と一抹の不安感と。
道場:いま、「人間の世界」に帰ってきた自分が、人外の世界にいた自分の書いたものを読んで、消化している、という段階です。少なくともここには、マシンとなって書いていた自分と人界に帰ってきて読んでいる自分と2人いるのですが、とくに第II部を書きながら「戦後」のさまざまな経験に触れて反応している複数の自分がいてその「自分」たちの「対話」によって歴史像が描かれていたこともたしかです。単一の自己が歴史を裁断しているなんていう感じはとてもなくて、自己の複数性、いろいろな経験や他者とつながろうとしたりムカついたりしている複数の自己、という「一人シンポジウム」みたいな感じで本が書き進められていった、という感覚があります。
小林:長さが必要、というのは、そうした「自己内対話」という方法とも関わっているんでしょうか。
道場:でも……これを言うと怒られるかもしれませんが、長さについては、現状でも端折りすぎ、というふうに感じています(笑)。さてどうしましょうね。
小林:本書一冊で完結するというわけではなくて、今後の執筆作業に開かれたものだということですね。今後はどういう執筆の予定があるのでしょうか。
道場:うまくまとめていただいてありがとうございます。たぶん、ですが、50年代論になるはずです。あと、夏頃には出ると思うのですが、創土社から「シリーズ・1970年代の住民運動」という復刻本叢書を5冊出す予定で、その編集委員の一人として、宮崎省吾さんの『いま、「公共性」を撃つ』と、三里塚青年行動隊の『壊死する風景』の解説(後者はロバート・リケットさんとの「対談」形式)を担当しています。こちらもぜひお読みください。
小林:たいへん楽しみです。今日はありがとうございました。

※追記――本書の内容を紹介した部分については、『模索舎月報』6月号掲載の「自薦『占領と平和』」と重複していることをおことわりしておきます(道場)

◎小林浩(こばやし・ひろし):1968年生まれ。「[本]のメルマガ」
編集同人。


※本原稿は、[本]のメルマガ(http://www.honmaga.net/)VOL.214(2005年5月25日号)に掲載されたものを、許可をいただき転載いたしました。

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